• mmのひとりごと

    むかしむかし小説を書いていました

    小説を人事労務管理の課題解決に活用

    用語の注釈は一番下にあります

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    この文庫本は当事務所代表が10年以上も前に「山田一休」として上梓したものです。心に闇を抱えた主人公たちがバーテンドレス雫の作ったカクテルを飲むと、どこか別の場所に飛ばされ、そこでの経験から新たな着想を得て、自我を取り戻し、再生していく物語です。こちらでもでも雫さんの力を借ります。

    商業ベースには到底乗せられず、中途半端なまま書かなくなっていました。

     

    ちょうど今この仕事をしていて思うことがあります。

     

    わたしたちの生活とともにあるはずのさまざまな法律や制度は非日常で、どこか遠くのできごとのように感じている人が多いのではないか。

     

    そうではなく、すぐ隣のことであると感じられる方法のひとつとして昔取った杵柄、とまでは言えませんが、物語に注釈を添えた形でお伝えします

  • 『そのままの水を』 

    1、

    退職ばかりを考えている。

    淀んだ空気が充満する狭いオフィス、カタカタと不協和音を立てるキーボード、

     

    上司が誰かのミスをねっとりと詰めているのが目の端に見切る。

     

    辞めてやる辞めてやる、退職届などそんなものも書きたくない、

     

    心がザラザラする。

     

    …プッププ…プッププ…。

     

    ほら、内線を取るのは誰だ。誰だ。

    「ちょっと総務~、内線取ってくださいよ~」

    オフィスの端から困り顔が叫んでいる。

     

    私か。私なのか。だからだよ。

     

    「はい、総務部です、は? 後藤さんですか?」声がいら立つ。

    ほら私じゃないじゃない、隣のデスクの後藤に無言で受話器を渡す。

    「今私、忙しいのですが」後藤のまつ毛エクステが私を見る。

    『忙しくない人』が内線ぐらいさっさと取れと偽物のまつ毛がわさわさと揺れる。

     

    私はそっと席を立った。

     

    「昼休憩行ってきます」誰に言うでもなく。後藤のエセまつ毛がまた揺れたか。

     

     

    オフィスビルを出てやっと息ができた。 オフィスビルとはいえ住宅街にある古いちっぽけなビルだ。

     

    緑色のこっけいな窓枠がもはやかわいい。

    いつもの公園。いつものベンチに座る、いつものへんな像の前だ。

     

    上半身裸の男性が右手に工具のようなものを掴みうつむき加減に微笑んでいる。

    裸で工具で微笑み…? アートはよくわからない。

     

    スマホの画面を凝視した。ウインクしているカモメのアイコンに触れる。

     

    『退職代行サービス! すぐヤメカモメ』

    私をにこやかに出迎える。

    今最強のお守りだ。

    2、につづく

     

    2、

    アプリを起動。ぱっと陽気な『ヤメカモメ!』くんが現れた。

    退職代行サービス『すぐヤメカモメ!』。

     

    少し情報を入力するだけで、もう私は自由だ。

     

    誰にも会わず何にも聞かれず、残った有休を全て消化し消える。

     

    送信ボタン、まできて又、今回も指が止まる。

    明日消えたら、あの仕事はどうなる? いやいや誰かがやるだろう。

    ちょっと面白い「ES調査」の統計、まだ途中だ。 いやいや誰でもできるから。

     

    ふるふると首を振る。

    アプリを閉じた。

     

    マイ水筒の水を喉に流し込む。

    像を見上げる。おかしい? 私。

     

    石造りの像は優しい顔をしているが、瞳が描かれていないためかどこかうつろで虚無だ。そして、疲れているように見える。

     

    虚無で疲れているのはあなたでは?

     

    耳元で声がしてぎょっとした。

     

    「え?」

     

    思わず立ち上がった。

    膝に乗せた作業服が落ちた。

     

    黒い影が優雅に揺れる。

     

    「大丈夫?」

     

    ハスキーな声とともに花の匂いがした。

    「あ、はははい」

     

    隣のベンチに女の人がいた。

     

    黒い服、長い髪、そのせいか露出している皮膚はま白だ。その人は片手に大きなユリの束を持ち、器用に作業服を拾ってくれた。胸ポケットの刺繍に視線を走らせつつ。

     

    『ARATA伸線(株)』紺の作業服に社名の刺繍は黄色だ。

     

    「あありがとうございます」かっこ悪いものを見せてしまった。

    奪うように受け取る。つと手がその人の手と触れた。

     

    なんてきれいな人だろう。完璧なアーモンド形の目、ちらりと覗く耳は内側から真珠のような光沢を放っている。

     

    「産業戦士っていうみたいよ」

     

    「は?」 美しい人、今なんと?

     

     

    「さん…?」

    目の前が真っ暗になった

     

    3、につづく

     

    3 、

    何? 貧血?

     

    スマホで時間を確認した。

     

    ないわあもう、充電切れて死んでる

     

    作業着に腕を通すと、ふいに鼻にかすかな違和感を覚えた。像を見た。

     

    あれ?

     

    やけに白く新しく修復されている箇所が見て取れた。手に持つは工具と小さいノートに変わっている。私は少し首を傾げた。

     

    帰社すると、デスクに貼られた派手なピンクの付箋に出迎えられた。

     

    後藤からだ。当の本人はいない。

     

    『営業林 14~ 産休入り説明』

     

    ん? 営業の林くん? 産休?

     

    「お疲れ様です…」

     

    事務所入り口からおずおずと顔をのぞかせる職員。

    ああ、同期の林か。

     

    ええええ

     

    息が止まった。

     

    『営業の林くん』が恥ずかしそうに自身の少しふっくらしたお腹に手をやる。

     

    「もうスラックス、ウエストゴム」

     

    そう、『営業の林』は男性社員だ、私が知る限り。

     

    わわわわわけがわからん…

     

    周囲を不安げに見渡す。落ち着かない私に林はくいと首をひねらせた。

     

    「ミーティングルーム先に行くぞ」

     

    ぶっきらぼうは確かにいつもの林だ。

     

    斜め前の係長がにがにがしく口をへの字に曲げた。

     

    「男が妊娠てよ、考えられんよ俺らの時代」

     

    それはマタハラだと誰かがやけに真摯な顔で諫めた。

     

    やばいですよと付け加え。

     

    私は完全パニック。デスクのPCで急いで検索する、グーさまお願い!

     

    『男性 妊娠』

     

    出てくる出てくる。

     

    男性の妊娠に関するワードが際限なくあふれ出る。

     

    画像も動画も。助けて厚労省!

     

     

    2022年4月改正育児介護休業法・・・目が留まる。

     

    これは去年春からの改正された育児介護休業法だ。うちの会社も対応に追われた。4月と10月に大きな改正があった。

     

    いやこれは この内容は、

     

    『男性の妊娠出産の促進等に関する法律』

     

    ~先の通常国家において衆参両院共に全会一致で可決成立した「男性の妊娠出産の促進等に関する法律は去る4月1日に令和3年法律第70号として交付され本規定は二年以内に施行されることが決定された~労働基準法が規定する妊産婦等から性別を表す文言が抹消された~。

     

    4、につづく

     

    4、

    ミーティングルームへ向かう。足が重い。

     

    「遅ぉ、谷元」

     

    林はペットボトルのキャップを開けながらあくびを噛み殺した。

     

    「ずっと眠い…」

     

    私は曖昧に笑った。林は唯一残っている同期入社の社員だ。体の線は細く、色白でいかにも頼りなげな印象の外見とは裏腹に、何事にも驚くほど行動的で思いがけないトラブルにも適切に処理できる、まあ頼ってもいい男だ。

     

    「なんだ、おまえ」

     

    え?

     

    「相っ変わらずのぼ~っ。大丈夫か?」

     

    大丈夫か聞きたいのは私です。

     

    「これ」

     

    ぱそりとテーブルに置かれたペパーミントグリーン色の小ぶりのノート。

     

    「やっともらえたぞ、必要なんだろ、総務」

     

    『おやこ手帳』

    ……。

     

    おずおずと手を伸ばした。会社では職員が妊娠出産に関する申し出をするときは証明書類として母子手帳の写しの提出を求めている。そう、今手にあるこういう手帳だ。

     

    『産む人:林 健吾』

     

    うむひとはやしけんご…。

     

    言葉にしていた。

     

    林がきゅっと自身のこぶしを握った。営業職とはいえ伸線産業の職員である。サンプルは時に重く、工場に立つときもある、細いがすじばった男のこぶしだ。

     

    「子宮外妊娠の腹腔を広げる治療は続いてて、正直辛いけどさあ、赤ちゃんもがんばってんだよ」

     

    にこり。母の顔。いや父か。

     

    「谷元、どうするの?」

     

    は?

     

    「おまえ、今年度のMBOどうしたっけ? しかも給与テーブルはレベル5だろ? 産むかスキル上げるかしなきゃ懲戒待ってるぞ」

     

    5、につづく

     

    5、

     

    産むかスキルか、先は懲戒。

     

    やるわと林がペットボトルを一本差し出した。

     

    林が飲んでいたものと同じラベル。

     

    機能性飲料ミネラルウォーター、葉酸・ビタミンB・亜鉛・鉄、そして、知らない成分とMとWが重なり合ったロゴ。じっと見つめた。

     

    どさり、隣から風圧。

     

    「つかれたあ…」

     

    後藤が首をこきこき回した。

     

    それから、両手を天井に突き上げた

     

    「受かりましたっ! 簿記論! 科目合格!」

     

    事務所内に軽く緊張感が走った。

     

    まばらな拍手が淀んだ空気をかき回す。羨望と諦めにも近い憎悪を隠して微笑む目は笑っていない。

     

    一人除いて。

    「おめでとう!」

     

    事務方トップが握手を求めた。

     

    「君のテーブルが上がるの確定。会社もこれで国の特定雇用率に近づけるよ」

     

    私はイントラネットの就業規則を開けた。

     

    まず、本則、それから給与規定にほかにもほかにも…。

     

    ぐっと喉がつまる。何か大きなかたまりが喉を突き上げる。

     

    口元をおさえる手が震えている。

     

    規定の巻末の改定履歴、どれもこれも2022年10月で改定されている。

     

    就業規則本則「女性労働者」という文言が「労働者」に差し替えられている。

     

    例えば、第5章第25条 (産前産後の休業)6週間(多胎妊娠の場合は14週間以内に出産予定の労働者から請求があったときは、休業させる。第2項 産後8週間を経過していない労働者は、就業させない。第3項 前項の規定にかかわらず、産後6週間を経過した労働者から請求があった場合は、その者について医師が支障ないと認めた業務に就かせることがある。

     

    そして、

     

    なに? 新設?

    第29条(不妊治療休暇)労働者が不妊治療のための休暇を請求したときは、年10日を限度に休暇を与える。第2項 労働者が不妊治療のための休業を請求したときは、休業開始日の属する事業年度を含む引き続く5事業年度の期間において、最長1年間を限度に休養することができる。

    追記?

     

    第68条(懲戒の事由)労働者が次のいずれかに該当するときは、情状に応じ、譴責、減給または出勤停止とする。⑦ 20歳から40歳の生産年齢に属する労働者が在職中に一度も妊娠出産をしないとき。なお、2026年9月までは出産に至らずとも、妊娠をした場合は当該懲戒にはあたらない。

     

    経過措置がある…、よほど恐ろしい。

     

     

    6、につづく

     

    6、

    喉がひりひりする。

     

    鞄の水筒を探した。

     

    スマホに触れる。電源がついていた。

     

    復活してる、画面のアイコンが輝く。

     

    『体外受精サービス こうのとり』

     

    赤ちゃんを運ぶこうのとりが笑っている。

     

    カモメは、カモメは消えていた。

     

    ぶるぶると震える足、ぐにゃりと視界がゆがむ。

     

    トイレに駆け込んだ。洗面台に手をつき肩で息をする。

     

    鏡に映る自分の顔が誰か他人のようだ。

     

    カチャリ

     

    密やかな音を立てて個室のドアが開いた。人影がそっと現れる。

     

    鏡越しに目が合った。

     

    「…、総務の…」

     

    確か開発事業部の事務方だ。飯田さん、だっけ。

    「ごめんなさい…」飯田のやや丸い肩が揺れる。

     

    「わたし、嘘をついていました。妊娠していなかったです。すみません」

     

    涙が一筋二筋。飯田は涙をぬぐうことなく、手洗いの水を細く流し続けた。

     

    飯田の話を聞く鏡の中の私は瞬きもせず、口が半開きになっている。

     

    医療技術の進歩で男性の妊娠が可能となっている、この世界。

     

    体外受精卵を腹腔内に着床させ、胎児を育てることに成功し、もはや子宮は不必要となったことを受け、この国は男性の妊娠出産を推進することで、少子化を打開しようとしている。

     

    法律は急ぎ制定され、一定規模の企業には男性の妊娠出産に関する制度の措置を罰則付きで義務付けた。

     

    妊娠出産が不可能な場合はスキルアップをすることで職務を拡大あるいは拡充し会社に貢献できなければ、懲戒処分相当であると決断する企業が現れている。

     

    そう、ここのように。

     

     

    7、につづく

     

     

     

    7、

    私はぼんやりと法に反しない就業規則は有効であることを思い出した。

     

    「でも」

     

    飯田の声に張りが出た。

     

    「でも」

     

    でも?

     

    「行く川の水は絶えずして…」

     

    え?

     

    「私が妊娠してないから、旦那にしてもらうわ」

     

    すっきりとした笑顔。しかも元の水にあらずと続けた。

     

    「女性が妊娠出産育児をするのが当然て」

     

    蛇口のハンドルをぐっと倒した。

     

    勢いよく水が放出された。

     

    洗面ボウルにほとばしる水は飯田の代弁者か。

     

    私は飯田が去年まで育児時短制度を利用していたことを思い出した。

     

    「私、来年の社内コンペ、絶対取るわ。もうキャリアの分断を気にしなくていい。産休育休時短を取って、周りに迷惑かけてすみませんすみませんって謝ってばかりなのは女だけなんて、おかしいでしょう」

     

    飯田は私に同意を求めた。

     

    「働け産め育てろ看取れ、男が」

     

    デスクに戻ったが、私の頭は飯田の言葉を反芻させることを止めない。

     

    あ。

     

    PCをあたふたと再起動する。

     

    共有ドライブ、ESフォルダ内、2023年度、項目、「労働環境への満足度」「キャリアプランに関する満足度」「評価制度に関する満足度」、集計、クロス集計、順に探す。

     

    画面をスクロールする手が止まらない。

     

    うなじの産毛がちりちりと逆立つようだ。

     

    2020年度と比較すると、2023年度は労働環境・キャリアプラン・評価制度と三項目すべて女性社員の満足度が高まり、男性社員の満足度が低くなっている。

     

    自由記述形式の、ある一文が私に語りかけた。

     

    『男性の妊娠出産制度の導入でキャリアップを諦めなくてもよくなりました』

     

    そこには何人もの飯田がいた。

     

    8、につづく

     

    8、

    喉のひりひりが収まらない。

     

    ビル1階の自販機に向かうが、エレベーターが待てない。

     

    非常階段を走り降りた。

     

    走らずにはいられなかった。

     

    何かの衝動に私の背中が押される。

     

    ああっ! ローファーが片足脱げ…っ!

     

    階段を踏み外した感覚とともに目の前が真っ暗になった。

     

    痛みは感じずただただ暗い。目は開いているのに暗い。

     

    「おい」遠くで声がする。

     

    「おい、靴」

     

    私は何とか立ち上がる。

     

    林だ。かかがんで、私にローファーを履かせてくれた。

     

    スラックスのベルトが見えた。それはしっかりと林の細い腰に巻き付いていた。

     

    「けがないか?」

     

    「うん、何とか」

     

    「なんだ? なんだよ」

     

    私は林の体を凝視していたらしい。

     

    「お腹、お腹ぺったんこ」

     

    「ああ、太れない体質だからな。お、スマホもぶちまけてるぞ」

     

    あ、どうも。

     

    ……。カモメが戻っていた…。

     

    「ね、林、ここどこ?」

     

    林が怪訝な顔をする。

     

    私はどこで何をしていたのか。

     

    「打ちどころ悪かったか? コーヒー買うけど、行く?」

     

    きょろきょろと落ち着かない私を見て、本当にけがはないかと林は心配している。

     

    ふと、あの公園で嗅いだ花の匂いを感じた。

     

     

    がこん

     

    林の缶コーヒーが慣れた音を立てる。

     

    『カフェイン量業界MAX ブラックを超えたブラック』

     

    カフェイン最高だよな、林がにんまりする。

     

    「おまえは? 同じの?」

     

    「ううん、あ、水で普通の」

     

    普通の水をください。

     

    「そうだ、嫁、妊娠した。今すぐ総務に出す書類ある?」

     

    私は少し呆けた。

     

    手にした水を見る。

     

    「すぐは、ない、けど…」

     

    あの公園のあの像が持っていたものは何だったか、あの像、産業戦士って?

     

    「…えっと、けど、絶対」

     

    絶対、林にはぜひ男性の育児休暇の取得を促そう。時短も。

     

    そうだ、全部ちゃんと説明できるようにすべきでは、私。

     

    ゆっくりとデスクに向かった。

     

    イントラネットで社内コンペを調べる。

     

    「出るの?」

     

    後藤が身を乗り出して私のディスプレイを覗く。

     

    「うちも出るつもり! お互いがんばろ」

     

    まつ毛が美しく揺れるのが見えた。

     

    プッププ…。

     

    内線だ。

     

    「はい、総務部谷元です!」

     

    ワンコールで出た。

     

    9、

     店内はやはり薄暗い。

     

     天井のスポットライトが生けたカサブランカの影を濃く壁に映す。

     

     かつかつかつ…。

     

    雫が美しい手さばきで氷を割る。アーモンド型の目が時折宙に留まる。

     

    「今日ね、お墓行ったわ」

     

     「ああ、伸線の」答えた男性はカウンター席の端から雫を見た。

     

    そ。

     

     雫は無表情のままだ。

     

     おわり

     

     

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